じっと同じ場所でした、お休み時間でしょうか。
同じ場面ばかりなので、これではと思っていたのですが・・・そのうち少し動きがありました。
なんでしょうね、可愛いらしいお花、お家に植えたいけれど・・・これは山のお花だからきっと育ちません。花は野に置け ですものね。
すてきな緑の季節にため息が出そう・・・・・
シベリヤで亡くなった方々の名簿が戦後70年を機に新たに公開されるという。10723名。
ソ連が日ソ中立条約を破棄したのは終戦の約4カ月ほど前。日本に宣戦布告したのはわずか1週間前だ。
ペリリュー島をはじめ太平洋の島々が次次と陥落し戦況はますます敗色が濃くなったころ、父はフィリピン・マニラから韓国・釜山に輸送機で移動。
この途中にも撃墜された機もあったという。ついて間もなく、終戦。
負けはしたけれど戦争が終わったことを誰しもが喜んでいたと聞いた。
ソ連軍に囲まれたのはそのすぐ後、武器は集められ燃やされたと。でももう必要のないもの。
しかしそこでは戦争は終わらなかった。船に乗せられ着いたのは舞鶴でもなく新潟でもなくウラジオストック。
シベリア鉄道に載せられ内陸深い極寒のシベリへと。
いずれ父から聞いた抑留生活は孫娘のために書いておこうと思っているが・・・とにかく悲惨なものだった。
あまりは語りたがらなかった父だが・・・話の最後にはいつもこう付け加えていた。
「シベリアなんぞに住んでいるロシア人も捕虜とあまり違わない暮らしをしていた。庶民はみんな毎日の暮らしが精いっぱい、どこも変わったものじゃない」と。